金川晋吾写真集「長い間」批評①

写真が時間を埋めている。中判カメラは重い。手元に残ったものは何か。

きりとりめでる


きれいな首だと思った。オレンジ色があざやかなボーダーのトップスは襟ぐりが深いがとても似合っている。肌にあるつつましい粉感は、うすい唇にコーラルオレンジの口紅が引かれていることで、「化粧をしている」という状態に回収されていく。外光につつまれて、顔のしわが眼に入ってこない。真っすぐこちらを見つめている。膝や机の上に置いて、金川晋吾の写真集『長い間』をめくる。バチ、バチっと、金川の伯母にあたる静江と目が合う。静江はたまに張りのないピースを形づくる。静江は今までどんな服を着てきたんだろう。結構スポーティーなものが好みだったのだろうか。真一文字に結ばれた口をみて、写真になる自身の表情、自身の肉とか皺とかといったものの像をコントロールしようとしているんじゃないかなと思った。どの写真の静江も堂々としている。

 撮影の為だけでなく、二人のあいだを流れる時間を埋めるものとしても在る写真の束。

 たったいま、わたしにこの写真集『長い間』がどう見えているか。

 許諾と親密性の可否だけでない他者の撮影の在り方の答えとして現れている。
それを伝えるために、写真というものが現在どういったものなのかを話したい。

 2018年のKaoRiによる荒木経惟への告発を受けて、モデルで女優の水原希子は撮影における被写体の立場の弱さをSNSで綴った1。KaoRiが問題としたのは、荒木が無断で様々な自身の写真を公開したこと、ポーズにしても様々な強要を行ったことだといえる。KaoRiの文章2は、水原の言葉を通して広く理解された。このすばやい理解の素地として、2017年にモデルでタレントのダレノガレ明美がSNSに自身だけ補正した集合写真をアップしたことで炎上したくらいに3、写真を公開するときの、日常的な政治性は議題となっているのだ。

 もちろん、この問題意識自体は何も最近に限ったことではない。古くをいえば、ドミニク・アングルの《泉》(1820~1856)は、モデルの少女がその貞操(裸体の公表)を捧げたことで出来上がったわけであるが、その後彼女は酒に溺れ、病で死に伏したと小説家のジョージ・ムーアは著書4で皮肉る。水原はそれを皮肉で終わらせない。作品制作において誰も不当な扱いを受けないようにするということ、制作行為における相互許諾の模索を具体的に行っている5。ただし、この議論が俎上に載せるのはプロフェッショナル間での撮影行為だ。では果たして、この職能者同士での議論を、「撮影されること」を職能としない場合について、すなわちアングルの泉における少女へとそのままスライド可能なのだろうか。

 現代写真作品は、被写体と撮影者の権力的な不均衡にまつわる問題に注力してきた歴史でもある。それに対する解法としては、自身を撮影する「セルフポートレイト」が主に検討されてきた。そういった責任範囲の明確化の一方で、素人に対する撮影や何らかの行為の依頼のうち、金銭などの対価の授受によって相互許諾される、クレア・ビショップが言うところの「委任されたパフォーマンス」も実行されてきたといえる。


 写真作品では例えば、(ビショップの分析対象ではないが)フィリップ=ロルカ・ディコルシアが男娼に被写体になるよう依頼し、その許諾金額を個別のタイトルに付記したシリーズ〈Hustler〉(1990-92)が筆頭に上がるだろう。金銭の授受は無いが、住居のポストに撮影の条件を書いた手紙を入れ、撮影してよければ指定の日時に窓辺に立つよう依頼し、向かいの建物から撮影する横溝静の〈Stranger〉(1998–2000)もまた「許諾」が作品の中心になっている。どう撮影が可能なのかもまた造形されているのだ。


 もちろん、許諾の腐心に収束するだけではない。ディコルシアは2000年の〈Head〉シリーズで雑踏の中で無心に歩く人を6mほど離れた地点からフラッシュで撮影した。無許諾で撮影・公開された本作はプライバシーの侵害で訴訟となるも、「表現の自由」が認められディコルシアが勝訴している。2022年にある昼の情報番組が「SNSに無断で写真を投稿する友人」はありか無しかとアンケートを採り、無しが90%だった6ことを踏まえてみれば、地域性や技術面での変化を差し引いても、時代の判断基準の変化を感じる。

 ディコルシアとSNSを並べるべきかはさておき、いまの専門性を持たない被写体にとっても無許諾はあり得ない行為なのである。もちろん、許諾をとらないで先行するイメージを自作へ引用する技法「アプロプリエイション」は存在するし、基本的にこの技術は、持たざる者が持てる者から、資本を勝手に簒奪するという構造に依拠することでコンセプチュアルに成立する傾向が強い。このように、「許諾」も「無許諾」も同様に尊い可能性を秘めた行為だとわたしは思っている。

 ここまで、今の写真や撮影というものの在り方をひた並べた。ただ、ここまでの「許諾の可否をめぐる論点」だけでは『長い間』が論じられないのだ。なぜなら、静江は撮影されるということを「許諾」しているかどうか、金川にも読者にも実のところわからないからだ。そもそも、「本当なんてあるのか」ということだ7

 ここからちょっとずらして。例えば、美術批評家のジーン・マクヒューは、インターネットで、「作品」と同じプラットフォームに現れることもある「ありふれた動画像」の違いを、記名性、過去(作品)との連続性、すなわち責任の積極的な所在に見出している8。「許諾の造形の有無」ではなく「責任」という力点。


 『長い間』は、友人にいきなり束で見せられた、何年にもわたる年賀状(そこには家族写真と出来事がかかれている)のようだ。選び抜かれたイメージと、その前後が日記として開示されている。その家族がどうやって互いに生き合ったかのかを、誰かしらが毎年のように長きにわたりとりまとめて、数枚、数百枚と配るものが、唐突に目の前に押し寄せる。ただ、『長い間』の日記は一筆の近況なんてことはない。その時々の心の移ろいをこんなに明晰に書いたら、「あの年賀状にはこう書いてたけど、実はこうだったでしょ」と新しい責任が到来するというのに。『長い間』にしても、近著にしても、金川は作品におけるあらゆる「実は」を一身に引き受けようとし、それによっていま他者を撮り得ているのではないか。

中判カメラは重い。でもそれは「写真家」であることの証明となり、撮影は二人の時間を埋めただろう。そうやって時間が刻まれて、物事に順列がうまれ、外部記憶化されていく。
静江は何度も時計を欲しがったが、病院の指導上、静江は時計を所有することが出来ない。
静江の戸棚にあった衣類以外の所持品は眼鏡だけ。眼鏡があったからテレビは見れたかもしれない。新聞も気が向いたら読んだかもしれない。だが時計無しには、あらゆる他者にとっての「予定」が不意の出来事だっただろう。
静江は「今、春でしょ。そして、次は夏よね。次来てくれるのは夏やね」と言ったという。

季節があった。静江の写真が残った。(美術批評家)

1「水原希子、ヌード撮影「強要」を告白 資生堂が事実関係を調査も...「分かりませんでした」」『Jcas news』2018年4月13日、https://www.j-cast.com/2018/04/13326144.html?p=all、2023年5月17日最終アクセス 

2 KaoRi.(2018)「その知識、本当に正しいですか?」2018年4月1日、https://note.com/kaori_la_danse/n/nb0b7c2a59b65、2023年5月17日最終アクセス

3「ダレノガレ出演番組で「顔写真加工女」特集 視聴者のツッコミ殺到」『J-CASTニュース』2017年4月11日、https://www.j-cast.com/2017/04/11295358.html?p=all、2023年5月17日最終アクセス

4 ジョージ・ムーア『一青年の告白』新作社、1924、158頁

5「「芸能界の性加害」水原希子のコメント全文」『週刊文春』2022年4月21日、https://bunshun.jp/articles/-/53498?page=1、最終アクセス2023年5月17日

6 フジテレビ、2022年4月20日『ポップUP!』

7 この「わからなさ」は金川の近著『いなくなっていない父』(2023、晶文社)でも中心的に論じられている。

8 Gene McHugh, Post iInternet, North Carolina:lulu.com,2011, pp.219-222

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