『日常的な延命』評③ やなぎまち
『日常的な延命』について、やなぎまちさんに書評を寄せていただきました
批評に擬態した手紙
ナナルイ」という出版社から、『日常的な延命「死にたい」から考える』という本が出版された。
物心ついたときから「産まれてこなければよかったのにな」という考えに憑りつかれていた私は、早速この本を読んでみた。
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『日常的な延命』は、批評に擬態した手紙なのかもしれない。
そこに記されているのは、著者自身によって行われたと思われる延命作業の軌跡である。著者自身があるときに「死にたい」という思いに憑りつかれ、
そこから逃れるべく試してきた様々な経験が、この一冊にまとめられている。
そしてこの本は、手に取った私たちに対して語り掛けてくる。
「僕はこうやって生き延びたけど、あなたはどう?」
とりあえず、その問いかけに対して応えてみようと思う。
まずは、コンスタティブなレベルで。
『日常的な延命』という本は、社会現象、作家、作品などを分析し、その分析を繋ぎ合わせることで、現実世界の問題を言語化し、その問題についての対処方法を著者自身が思考していくことによって進んでいく。
それぞれの思考は、部の単位で分けられながらも緩やかに繋がっていて、部を追っていくごとに思考は絡み合い複雑化する。
各部の表題にはテーマとなるキーワードが提出される。
第一部に登場する「安心欲求」という言葉は、今後、現代社会について考える際に欠かせない概念になると思う。
評価経済であったり、アテンションエコノミーという言葉がある。それらの言葉によって、情報社会の様々な問題点が議論されていったように、「安心欲求」という言葉の登場によって、現代のまだ光を当てられていない側面が議論の俎上にあがっていくことを願う。
第二部の「バーチャルな主体」について。
議論は安心欲求からそれを求めてしまうバーチャルな主体へと繋がっていく。
第二部の本文中に、このような言葉が登場する。
「情報が詰まりすぎていて重い、ゆえに軽い」
この文だけ読むとなんだが禅問答のような響きを感じるが、実際内容もこの辺りから複雑さを増していき、私は自分の解釈と照らし合わせながらページを読み進めることになった。
上記で引用した言葉に対しては、「情報過多が存在の意味を飽和させ、飽和した意味は<無意味>となる。その無意味化した存在感を<軽さ>として表現しているのだろう」と解釈した。
そのようにして軽くなってしまった主体が、どのようにして「ただそうである状態」を取り戻し、地に足をつけることができるか。
具体的な問題定義と、著者なりの解決方法については、是非本書を読んで確認してみてほしい。
第三部には「幽霊的死にたい」という言葉が登場する。
この部での議論について、残念ながら私は論点を共有することができなかった。
たぶん私は、「幽霊的な死にたい」に憑りつかれたことがないのだと思う。
私にずっとつきまとっている「死にたい」には理由がある。
それは、出生という現象がもつ暴力性に耐えられず、その暴力性への復讐として死にたいという気持ちが浮かび上がってくるからだ。
だから私の場合、それについては本書を頼るよりもカウンセリングとかに行った方がいいのだと思う。
ただ、第三部の中でひとつだけ気になる文章があった。
224頁の、「だからこそ、」から始まり、「考えてみなければならない。」までの文章だ。
この文章は、著者がなぜ『日常的な延命』という本を書いたのか、についての告白になっているように感じてエモかった。
著者は、この「幽霊的死にたい」というものに本気で苦しんでおり、その苦しみと向き合った軌跡が本書として結実しているのだろうと、読みながら感じた部分だった。
社会の中でも、家庭の中でも、「死にたい」という言葉を額面通りにマジな表情で口にすることは、なかなかできない。
だから、なんとなく「死にたい」という苦しみを抱えた人がこの本と対話することで、なにか小さなことでも延命のヒントを得られたら、それはすごく意味のあることだと思う。
最後の第四部は「フランツ・カフカ」が取り上げられる。
第一部~第三部は、議論が緩やかに繋がりながら展開されていったが、第四部については、これまでの議論によって生成された塊を照射するような位置にあると感じた。
著者は、カフカとの時を超えた死にたいもの同士の対話を経て、自身に憑りついた幽霊的な「死にたい」を中和し、延命することを果たしたのだろう。
ここまでの文章は、私がこの本を読んで、コンスタティブなレベルでどのように受け取ったかについて書いた。
以降の文章は、冒頭の問いかけに対しての、私的な返事である。
僕はなぜ、今も生きているのだろう。
それは端的に、僕のことを支えてくれる人間が周りにいたからである。
中学校の頃不眠症になり、深夜ラジオのエンディング曲を聞きながら「死にたい」と思った。
学校にも行きたくなかったし、苦しかった。
それ以降「死にたい」は、ことあるごとに僕の前に現れるようになった。
教室の中で、電車の中で、ベッドの中で、死にたいと向き合った。
でも最終的に「死にたい」が僕のことを殺すことはできなかった。
人と人との繋がりが、僕を世界の中に繋ぎとめていたからだ。
それは、単なる幸運であり誰かのためになる教訓は何もない。
もし今それらの人間関係の一切が絶たれたら、僕は死ねるだろうか。
あるいは『日常的な延命』に書かれていたことのどこかを手掛かりに延命できるだろうか。
どちらになるのか、まだわからない。
ただ、僕にとっては、この文章を書くこともひとつの延命措置となった。
きっかけをくれた小川さんとナナルイの鈴木夫妻に感謝します。